赤い空に浮かぶは青白い月。禍々しく存在を主張する城。
魔の世界を統治する王が住まうその城から、世界を切り裂く一閃の光があふれ出る。
その光りは、闇に包まれた世界が音もなく静かに滅んだ瞬間だった。
勇者と呼ばれた青年は一人、森の中で佇んでいた。
何もかもを失い、帰る場所も無い。魔王という存在を打ち負かしたとしても、手元に残ったのは血に濡れた鈍く光る剣が一つだけ。
魔王討伐後、仲間と別れ着の身着のまま流れる旅に身を任せた。
強大な力を持つ存在を滅ぼした後、残った勇者の存在とはなんだろうか。魔王以上の力を持つ兵器として国の監視下に置かれるか、もしくは血を絶やさぬために王族の者と契りを交わして飼い殺されるか、若しくは強力すぎる兵器は今後の為に破棄される末路か。
「……冗談じゃない」
そんなことになる為に剣を振るったわけではない。ただ、自分にとっての平穏を取り戻したかった。それだけなのだ。
歩みを進めて周りに見えるのは、太陽の光りに照らされ輝く木々。小さなさえずりは優しく音を奏でている。
静かに呼吸をした青年――ブラッド――は空を見上げ、一度だけ瞬きをする。キラキラと輝く太陽の光りが望ましい。押し潰されてしまいそうな眩しさに目を細め、右の手のひらで目元を覆った瞬間、背後からガサリと葉が揺れる音がした。
「い、たぞ!……こっちに勇者様が居たぞ!」
「……くそっ、ここまで追ってきやがった」
左の腰に下げている剣の鞘を握りしめ、目の前に現れた男に背を向けて走り去る。男の声が聞こえると共に、静かだった森を荒らすかのごとく一人、また一人と叫ぶ声が木霊する。
「勇者様を捕らえよとの通達だ!」
「ここで捕まえれば家も安泰よ」
「いいか! このまま他国に逃がすことは決してしてはならんぞ!」
男の声に胸が軋む。鞘を握る手に少しだけ力が篭る。
ブラッドは奥歯を小さく噛んで、息を吸う。
世界を救うとはなんだったのだろうか。剣を振るった理由はなんだったのだろうか。誰かに感謝して欲しいわけではなかった。誰かに褒められたいわけでもなかった。
ただ、目の前で泣いている子供が、苦しんでいる子供が笑えるようになればいいと思っていた。なのに。
すん。と鼻を鳴らして走り続ける。
ひたすら走って、誰の目の届かない所に逃げたいと願う。
朝露に濡れた地面を蹴れば靴が泥で汚れていく。気にすることなく歩みを止める事もなく走り続けた。
一般人に剣を振るうわけにも行かない。誰かを傷つけたいわけではない。ブラッドの頭の中にでは「どうすればよかった」と疑問を繰り返す事しかできなかった。
魔王と言われる存在と対峙した時、絶望し、心の奥底で望ましいと感じた。
"なぜ魔王なのに慕われる。なぜ、アイツは常に笑っていられる"
魔界。と呼ばれる世界は思いの外平和だった。魔族でも人間でも、エルフでも悪魔でも、誰でも存在を許された。理由がなくったってそこに存在を許された。
卑しい人間の嫉妬も、妬みも嫉みも存在しない。姿形が違うだけで否定をしない。人間が捨てたはずの"共存"の世界があった。
何のために血に濡れた剣を握っていたのだろうか。何のために恐怖を覚え、見えるはずの無い希望に縋りついていたのだろうか。
『お前達は可哀想な存在だな』
その言葉が頭から離れられない。頭の片隅にこびり付いて消えやしない。今までしてきたことを否定された気がした。自分が"正義の為に"と奪ってきた命が恐ろしくなった。
「勇者様! いい加減城に帰ってくだせぇよ」
「いいじゃなですか、城には美人の姫さんも居る、金だってある。なにを逃げることがあるんですかぇ」
キラキラと輝いていたはずの森が、黒く染められていく。追ってくる声が、足音が、言葉が全てを黒くする。
心臓の少し下。ドロリとした何かが溜まる気がした。
剣を抜くことをためらったブラッドの腹を真っ赤な炎が貫いた。痛い、熱い、苦しい。そう思うよりも早く、「どうしてこんな奴らのために!」とブラッドの思考を支配した。
ぐにゃりと歪む視界と、覚束ない足元。踏み出した足に力が入らないのを理解する前に、ブラッドの体は崩れ落ちた。
近くで話しているであろう男達の会話がどこか遠くに聞こえる。遠のく会話をぼんやりと聞いていたブラッドは、降りてくる瞼に抵抗することなく視界を閉ざした。
魔王討伐から僅か二週間後。
勇者と呼ばれた青年が消えた瞬間だった。
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