そよそよと温かく心地良い風が、青々と生茂り、生命の息吹を感じさせる木々の葉を優しく揺らす。さらさらと返事をするように風に揺られた葉は音を奏で、静かだった森をほんの少しだけ呼び起こした。 

 

 森の奥、こじんまりとした屋敷が一件。 

 屋根に止まる渡り鳥が首をもたげ眠っている。さわさわと吹く風に茶色い毛が逆立っていた。 

 カクリと大きく首が動き、目を開けた渡り鳥の耳に聞こえた怒号。反射的に大きな羽を広がせて飛び上がる。そのまま風に乗り青空に向かって羽ばたいた。 

 

「てっめー!! いい加減にしろよこのナルシ野郎!!」 

「うるさい、耳元で叫ぶな」 

 

 キイイ! と金切り声を上げた白い物体。歯痒いのかハンカチを噛締め足をジタバタと動かしている。 

 触ればふわりと心地良さそうな白い毛並み。こめかみ辺りから生えている大きな二つの角に、全長は約九十センチほど。背中に存在するのは体よりも大きな翼。ふりふりとふりまわした愛らしい尻尾と黄色と緑が交じり合う瞳の奥には怒りの感情。 

 ギャンギャンと吠え、今にも噛み付こうとするその存在に腕を伸ばし、ペシリと顔面を右手で押さえた。 

 

「ドット、いい加減にしろ。それ以上吠えるなら消し炭にしてやるぞ」 

「はあー!? 意味わかんないんですけどー! そもそもの原因はお前だろうが! このナルシ魔王が!!」 

 

 顔面を押さえている手にガブリと噛み付く。驚き、声も無く腕を思い切り振り、目の前の真っ白い存在──竜のドット──を振りほどいた。 

 

「いってええ!」 

「痛いのはこちらだ! 相変わらず野蛮な!」 

「なにおう! オレは崇高なドラゴンだぞ!」 

 

 白い竜のドットと互いに睨み合う一人の男。 

 銀色に輝く長い髪を翻し、ドットを見下ろした。顔色は雪のように白く、深い紫色をした瞳。口角をあげ、笑った口元から覗く八重歯。 

 

 人の目を惹く端整な顔立ちをした男は、魔を統べる王としてかつて名を馳せた存在。破滅の魔王、オニキスと呼ばれていた。 

 

「そっもそも、お前たちが暴れるから家がこんなになったんだろう!! なに休憩してるんだよ!」 

「そんなに根詰めて作業しても仕方あるまい。それにいい機会だ、狭い家だったからリフォームするのにいいではないか」 

 

 ははははは。高らかに笑うオニキスにドットはひくりと口元が痙攣する。 

 顔だけでなく、怒りで全身を真っ赤に燃え上がらせたドットは大きな口を開け、オニキスにガブリと噛み付き、思いの丈をぶちまけた。 

 

「こんの、くそ魔王ー! 大体お前らがここに来なけりゃソル様と二人だけでのんびり暮らしてたっていうのに!」 

「ははは、文句があるなら、その本人に言うといいだろう! 私達を助けたのはソルなのだからな。いい加減放さぬか!」 

 

 首根っこを掴み、べりっと腕から引き剥がす。手足を振り回して暴れるドットだが、手足が短く振り回すだけでオニキスに当たらなかった。 

 

「だっさ」 

「ううううるさいなあ!」 

 

 うわーん、ソル様ー! と泣き言を言い出したドットの声が半壊した家に響き渡った。

 

 正面玄関から見れば少し大きく綺麗な屋敷。しかしぐるりと屋敷を回りこめば、現われるのは崩れ落ちた壁に瓦礫の山。それは屋敷の中が丸分かりになってしまう惨状。 

 そんな状態にしたのは今現在、自らを抓みあげるオニキスともう一人。どうにか一泡吹かせてやろうと、ドットは鼻息を鳴らして太い尻尾をぶんぶんと振り回した。 

 

 ベチン! ベチン! 

 聞こえたのは軽快な音。尻尾に当たる感覚にドットは「あ」と声を上げた。 

 

「け……消し炭にしてくれる!!」 

「んがー! 返り討ちにしてくれるわー!」 

  

 顔を押さえ、指の間から見えるオニキスの顔が怖い。だが、気迫に負けず両手を上げ飛び跳ねた所で、ぽつりと鼻先が濡れる感覚。 

 見上げれば広がるのは灰色の空。ゴロゴロと鳴り響く雷鳴に、辺りに漂う冷たい空気。ドットとオニキスは顔を見合わせ、大きな溜息を吐いて互いに肩を落とした。 

 

 

 

 ザアザアと窓を叩くのは雨音。小ぶりだった雨が本格的に降り始め、肌寒さに温もりを求め暖炉に炎を燈し、部屋の中を温かくする。 

 暖炉に燈した黒い炎は、古い薪ではなく──今や生活の一部となった、閉じ込めた魔力を原動力として、風を起こしたり火を燈したり出来る機械──封具(ふうぐ)を介して存在を主張した。 

 

「解せぬ」 

「なにがだ」 

 

 鼻歌を歌い、フライパンを持ち「よっ」とホットケーキを回転させてひっくり返せば、綺麗に焼けたこんがりきつね色。上出来だとにこりと口元を引き上げる。 

 尻尾を振り、翼をぱたりぱたりと動かして愛用の薄いオレンジ色のエプロン装着していたドット。その後姿を、テーブルに肘を立てて頬杖をしていたオニキスが歪んだ表情でもう一度口を開いた。 

 

「そもそもだな、貴様、術を使って直せるのならばさっさと直せばよかっただろう。労力の無駄だ」 

「何言ってやがる! そもそもあの壁を壊したのはお前とブラッドだろうが! 修理したのは雨が降ってきたから! 断じてお前たちのためではない、ソル様のために決まっている!」 

 

 キイイと興奮したドットが焼きたてのホットケーキを一枚投げつける。オニキスの顔面にボフンと当たった。 

 

「あっついだろう!」 

「食え!」 

「食べてやる、ありがたく思え!」 

 

 売り言葉に買い言葉。熱々のホットケーキを両手で持ち、オニキスはそのまま噛り付いた。 

 

「んまい」 

「ふふん、当然だろう」 

 

 ドットが鼻高らかに笑い、焼いたホットケーキを次々と皿の上に重ねてタワーを作成していく。 

 もごもごとホットケーキを食べているオニキスと、鼻歌を歌いながらいくつものホットケーキを焼いているドット。 

 ザアザアと窓に当たり、弾けて流れる雨。雨音を裂くように聞こえた屋敷の玄関を開け放つ騒音。ドットとオニキスは顔を見合わせ、音が聞こえた玄関まで走った。 

 

「あ、ドットいい所に! タオル持ってきてくれ、ソルが……」 

 

 カツンと玄関に響く音。 

 その音にオニキスが反応し、音がした方向を向く。 

 

「ソ、ソルさま……!」 

 

 ドットの手のひらから、フライ返しが落ちた音が辺りに響いた。